リチャード・ブローティガン著『鳥の神殿』

この本の登場人物はみな欠陥を持っている。それは初めから備わっていたものでなく、変化によって備わったもので、つまりそうなってしまった理由や原因がちゃんとあるということである。しかもその根本的なものは日常に潜んでいた。日常の内に抑えていたたががはずれ、それを何か他のもので代用しようとしたことが起因していたのである。ということは誰でも欠陥を持つ資格は十分備えているのである。
最初はほんの些細なことから始まる。僅かなきっかけや気まぐれで。そしてだんだんそんな自分に慣れていき、ちょっとずつ欠陥が増して過剰になり、歯止めがつかなくなって、いつしか度が過ぎてたということになってたりする。そのときはもう取り返しがつかない。そんなことはないですか??
何かをやらかした後じゃないと自分の愚かさや間違いには気づかないものですよね。
個人的にはチャールズ・ブコウスキーの『町で一番の美女』に収められている『淫魔』という短編がまさしくそれを描いた最高峰だと思います。あれには痺れました。

この小説は間違いを犯すところまでは書いてなく、ただ欠陥が過剰になっている人たちを描いています。また欠陥を持った人たちの関係を第三者的視点で描いているのでとても滑稽。またリアルでもありましてそれがなんだか変に落ち着かない気分にさせるのです。だから読んでて上に書いたようなことを考えたのかもしれません。だいぶ抽象的ですが。

リチャード・バックの『イリュージョン』という小説の解説で、翻訳した村上龍が人間のもつ過剰と欠損が人間関係が構築されるキーとなるうんぬん書いてあったのですが、『鳥の神殿』はその欠損の部分描いていたように思います。