私は海を抱きしめてゐたい

坂口安吾の私は海を抱きしめてゐたい、は名作です。

さて最近いしいしんじという作家の「麦踏みクーツェ」というのを読んでます。
今までトリツカレ男とぶらんこ乗りはよんだのですが、正直あまりおもしろいと思わなかった。どうも膚に合わないのです。なんか腑に落ちないというか、理解しきれないみたいで。ただつまらないとかおもしろくないといって棄てるほどではないし、むずかしいからってわけでもない。でも何か気になる作家ってのがぼくのなかでのいしいしんじの立ち位置です。

そういう存在は身近にもけっこういたりします。なんかむかつくとか好きじゃないみたいな悪い意味でもいるし、なんか恐いとか近寄りがたいみたいな場合もあります。それなのになんか気になるみたいな。。

そういうなんか好きじゃないけど気になる人というのは、ただ気が合う人より自分の人生にとって大きな役割を担っていたり、影響を与えてたりする。
気が合う人はってのはどこかしら考え方が似てたり、価値観が一緒だったりする人で、そうじゃない人は自分とはまったく相違な考え方であったり価値観であったり、また自分にもったないものをもってる人だと思う。まぁその要点は複数あるので一概に人をどちらかに分けて考えることはできませんが。

カップルなりとくに夫婦は相手にお互いの欠点を補うようにできてるつまり自分にないものを求める場合がおおいらしいのですが、だからこそ好きか嫌いかはほんの僅かな違いから生まれてくるような気がします。似てないもの同士のほうがそういう関係になりやすいのでしょうな。

そういう人は自分にとっての安定なりバランスを脅かす台風的存在だと思う。しかもその台風な人の近くにいる人(気が合う人)はその脅威に気づかない。台風の目の中にいるから。でも気が合わない人からしたら脅威なわけで、被害も尋常じゃなかったりする。そういうトリックスターな人は確かに脅威だが安定を壊す代わりに新たな可能性もつれてきたりする。そういう意味で一概に気が合わない人とまっく接触しないというのはためらわれる。

またそのトリックスター性は長続きしない場合が多く、ようはもう影響を十分に受けて必要なくなったからとか、まぁ簡単にいうと飽きたってことで別れにつながったりするみたいです。

飽きるというのには二つあると思ってまして、一つはもう影響を十分に受けた、もう楽しめないといういわゆる飽きたというのと、もう一つはそれ以上の何かに気づき、それに拘泥していたことが哀しくなってしぶしぶ諦める場合。

後者は飽きるとは違うのかもしれませんが、私は海を抱きしめてゐたいの最後のシーンの主人公の思いに似たような感じです。

そんなくだらんことで悩む自分が悲しい。もっと辛いことやもっと楽しいことがあるはずなのに。最後のシーンのようなそう思えるきっかけがあれば。ようは自分の今の考えなんて幼くて全然欠点だらけで、これからいくらでも変わり続けるってのが100%確信して思えるようなことがあればいいのにな。自分のちっぽけさ無知さに気づくことでまだこれから進んでいけるような気がします。